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J.R.R.トールキンの『指輪物語』におけるホモソーシャリティとslash文化1-2

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2.女性の疎外と強調

 『指輪物語』において女性の存在があまりに希薄であるという指摘は、これまでもたびたび行われてきた。リン・カーターが「女性キャラクターはとりわけ弱く、面食らうほど説得力がない。男女間のロマンティックな関係を描くのが、トールキンは苦手なようだ。」(カーター、p150)と述べるように、前述した男性同士の友情や絆の強さに比べ、基本的に戦いの場面には参加しない女性キャラクターはどこか物語の中心から疎外されているように感じられる。確かに、ホビット庄の村娘・ローズやエルフの姫・アルウェンは旅に参加することも出来ず、ひたすらに愛しい者の帰りを待つ恋人として描かれ、主人公たちに一時の休息を与える川の娘・ゴールドベリやエルフの女王・ガラドリエルもその役割はひとつの土地に縛られているように見える。しかし、他方で彼女たちが与える「贈り物」や「安らぎの場」が、物語において必要不可欠であることも忘れてはいけない。例えば、ガラドリエルがフロドに送った玻璃瓶は、彼が暗闇に陥った時に道を照らす灯りとなり、エルフの行糧は≪旅の仲間≫全員の命を繋ぐ大切な食糧だ。アルウェンは自ら織り上げた王旗を遠く離れた恋人であるアラゴルンに贈り、彼が名実ともに人間の王となることを後押しする。直接戦場に赴かずとも、主人公たちを支える重要な品に形を変えて、彼女たちもまた旅に参加していると考えることができるのだ。

 離れても共にある存在の代表格は、やはりエルフの姫・アルウェンだろう。彼女は不死を約束されたエルフであるにも関わらず、死すべき運命の人間であるアラゴルンと恋に落ちたため、永遠の命と共に約束された至福の地を捨てるという選択をする。ピーター・ジャクソン監督は、原作には無いオリジナルな要素[i]を追加して、アラゴルンとアルウェンの愛をよりロマンティックに描いた。「贈り物」という点で目を引くのが、彼女が恋人との別れに際し「私の命と共に」(旅の仲間,Disc1)と託すペンダントだ。≪夕星≫という、彼女の名[ii]と同じ名を持つその宝石は、まさに空から恋人を見守り続ける宵の明星のように、劇中アラゴルンの胸に輝き続ける。例えば、映画第2部においてアラゴルンが命の危機にさらされた時は、ペンダントも彼の手を離れてしまうが、命からがら味方の陣営に戻ったアラゴルンが再びペンダントを手にすると、その直後は力強く扉を開ける未来の王としての姿が映し出される。(二つの塔,Disc2) 逆に、戦いに敗れればアルウェンの命も危ないということを告げられたアラゴルンが見る悪夢の中では、アルウェンの死を暗示するかのようにペンダントが砕け散る。(王の帰還,Disc2) これらは勿論、極めて現代的な文脈に即した映画特有の演出ではあるが、前項で論じたような男同士の絆から物理的には疎外されていても、ヒーローの心の中に常に支えとしてあり続ける女性――言いかえればホモソーシャルな絆におけるヘテロセクシャルな愛の象徴という点では、原作も映画もアルウェンの果たす役割は同様に捉えることができるだろう。
一方、唯一戦いの場に立ち、物理的に最も男性たちと近い距離にいるのが、人間の国・ローハンの姫であるエオウィンだ。「盾持つ乙女」と評される彼女は戦場で勲を立てることを望み、自ら男装して戦いに身を投じるのみならず、男性優位の社会において疎外される女性というものを、最も端的に象徴しているキャラクターでもある。第3部において≪死者の道≫という危険な道に進もうとするアラゴルン一行に、自分も仲間に加えてほしいと申し出るエオウィンは、一人残るように言われて憤慨を露わにする。
 
「騎士たちが出陣して行く時、いつもいつもわたくしが残されるのでしょうか?」……「殿の御言葉の裏はこういうことにすぎません。お前は女だ。だからお前の役割は家の中にある。……けれどわたくしはエオル王家の一員でございます。召使女ではございませぬ。わたくしは馬に乗ることも剣を振うこともできます。」(『王の帰還/上』,p103-104)
 
 このエオウィンの言動はアラゴルンへの恋心ゆえと捉えることもできる[iii]が、ブラッドリーは「あの方は恐らく、あなたには若い兵士の目に映ずる偉大な大将のように讃嘆すべきものに見えたのでしょう」(『王の帰還/下』,p171)というファラミアの台詞を引用して、「アラゴルンに対するエオウィンの愛は男性としての英雄崇拝」(ブラッドリー、p133)であると説明する。つまりエオウィンは、アルウェンのような「恋人」になりたかったのではなく、例えばレゴラスやギムリといったキャラクターと同じように、対等な「仲間」としてアラゴルンの横に並びたかったが、彼女が女性であるがゆえにそれは叶えられなかったというのだ。現に、「殿についておいでになる他の方々とて同じではございませぬか。あの方々は殿から離れたくないばかりについておいでになるのです――殿を愛していらっしゃるからこそです」(『王の帰還/上』,p105)というエオウィンの言葉には、アラゴルンと彼を取り巻く男たちとの絆に対する鋭い指摘が込められている。

 このように考えると、『指輪物語』における女性たちはただ単に「面食らうほど説得力がない」というより、むしろ確信犯的に「あえて疎外されるように」配置されているのであり、それによって強調されているとも考えられる。だからこそ彼女たちは姫や女王といった普通では手に届かない存在として、理想化されて描かれるか、そうでなければ巨大な雌蜘蛛・シェロブのように化物として退治されざるを得ない。イヴ・セジウィックが唱えたホモソーシャリティという概念は「男同士の絆を、男女の恋愛よりも高位に置きつつも、同性愛は認めない」という、ヘテロセクシャル(異性愛)を前提としたホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性蔑視)を特徴とするが、この方程式を『指輪物語』にあてはめるとき、女性は蔑視ではなく崇拝や畏れの対象として男性の輪から外されるのだ。彼女たちが男性の横に並び立つとき、それは理想化された地位を退き、彼らの「妻」となるときだ。かくしてアルウェンは不死の命を捨て、エオウィンは「もう盾持つ乙女にはなりませぬ」(『王の帰還/下』,p172)と誓い、平和と共に訪れる結婚という制度の中に組み込まれていく。

 これは女性キャラクターだけに限った話ではない。平和がもたらす婚姻は、戦時下におけるホモソーシャリティと対を為す。戦いが終わり、登場人物たちが帰途につくと、その先に待つのは愛する人との結婚と家庭生活であり、これは同時に男性たちにとってホモソーシャルな絆の終焉を意味する。それを象徴するかのように、サムがローズと結婚すると、まもなくフロドはエルフと共に至福の地へと旅立ってしまう。あれほど「たとえあの方が月へ上られようと、おらはあの方について行くだ」(『旅の仲間/上』,p200)と誓ったにも関わらず、サムは西の海へ消えて行くフロドを見送ることしかできない。[iv]そして彼が辿り着くのは妻と娘たちが待つ我が家であり、『指輪物語』はこの台詞を最後に完結する。――「さあ、戻ってきただよ。」(『王の帰還/下』,p334) 男同士の絆が、男女の愛ある家庭にその地位を譲るとき、物語もまた終わりを迎えるのだ。

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[i] 原作では傷を負ったフロドを裂け谷に運ぶのは、グロールフィンデルというエルフの戦士の役目だが、映画では代わりにアルウェンがその役をこなし、彼女はその後もたびたびアラゴルンの夢や幻想という形で「遠く離れた恋人」として登場する。
[ii] トールキンが創造したエルフ語でArwen(アルウェン)は「宵の明星」の意味。
[iii] ファラミアからの告白に対し、エオウィンが「わたくしは別の方に愛されたいと思いました」(『王の帰還・下』,p171)と答えているように、彼女がアラゴルンに恋愛感情を抱いていたように解釈できる部分も存在する。
[iv] 本編のその後が語られる『指輪物語・追補編』では、妻・ローズの死後にサムも西の地へ渡ったという記述がある。(『指輪物語・追補編』,p168)これは妻の死により異性愛的な絆が失われると、再びホモソーシャルな絆を目指すという風にも解釈でき、同様のパターンは『シャーロック・ホームズ』(コナン・ドイル著)において、ワトソン博士が妻の死後に221Bに戻り、ホームズとの同居を再開する点にも見て取れる。

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