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J.R.R.トールキンの『指輪物語』におけるホモソーシャリティとslash文化(結論)

結論

 以上を踏まえて、序論での問い――なぜ『指輪物語』がSlash文化からの人気を獲得しているか? という疑問に立ち戻るならば、その答えとしては①作品に描かれるホモソーシャリティ、②作品そのものの「ファンタジー性」、③その両方を目に見えるものとして映像化した映画の存在という3つの要素が挙げられるだろう。The Lord of the Rings Slashの隆盛とは、これらの要素が相互に影響しあい、Slash文化の持つ特徴と上手くかみ合ったために導かれた一つの結果なのではないか。

 もっとも、Slash的な解釈の仕方は広く一般に受け入れられるものではない。A. Smolは”Many Tolkien fans object to slash, sometimes out of their own belief that homosexual relationships are immoral and/or because they find that representations of homosexuality betray the intent of the original story”(A. Smol, p 14) と、Slash反対派の存在についても言及している。Slash文化とはあくまでも特殊な趣味のひとつとして扱われており、Slash作者の側も「嫌いならば読まないで(Don’t like, don’t read)」という断り書きのもと、同好の士以外の目に自分の作品が触れることを忌避する。あくまでも「ただの妄想」と言い切って、Slashに対して個人的な楽しみ以上の意味を求めようとしないのだ。

 しかしながら、Slash文化が「理想化された男性同性愛」という限定的な形であれ、作品を従来とは異なるジェンダー/セクシュアリティの観点から読み解こうとする姿勢を示しているのも事実である。ジェンダーやクイア・スタディーズといった研究分野では「同性愛⇔異性愛」の二項対立はもはや過去のものとして扱われるが、一般レベルにおいては「異性愛主義のバイアス」は未だ根強いと考えられる。だからこそSlashを”immoral”とするような反対論者も存在するのである。このように新旧両方の価値観が入り混じり、完全には移行しきらない時代の中で生まれてきたのが、Slashという読み方なのではないだろうか。

 『指輪物語』という原作のテクストそのものは本が出版された1955年以来変わらないが、その読まれ方は読者それぞれの価値観や、それを規定する時代・文化の影響を受けて常に変化し続けている。映画版の『ロード・オブ・ザ・リング』も、それをきっかけに現れたThe Lord of the Rings Slashというジャンルも、2000年代以降の主に英語圏という時間的・文化的制約の中で出てきた“解釈”のひとつに過ぎない。仮に今後、多様なジェンダーやセクシュアリティがより広く認められる社会が訪れたとして、その時にもう一度『指輪物語』の映画版や二次創作が作られたとしたら、おそらく現在とは全く異なったものになるだろう。二次創作においての”Slash”というジャンル区分さえ無くなっている可能性もある。ただ一つだけ確かなのは”But I love him, whether or no.”(The Two Towers,p290)というテクスト上の事実だけだ。その”love”の意味をどのように受け止め、解釈するかは読者ひとりひとりの手に委ねられている。

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引証資料リスト

ⅰ.第一次資料
Tolkien, J.R.R The Fellowship of the Ring: The Lord of the Rings--Part One. New York, United States:  Random House Publishing Group, 1986. Print.
---. The Two Towers: The Lord of the Rings--Part Two. New York, United States:  Random House Publishing Group, 1986. Print.
---. The Return of the King: The Lord of the Rings--Part Three. New York, United States:  Random House Publishing Group, 1986. Print.
---. The Book of Lost Tales--Part Two: The History of Middle-Earth. Ed. Tolkien, C.R. London, England: Harper Collins, 2002
J. R. R.トールキン著, 瀬田貞二・田中明子訳『指輪物語1 旅の仲間 上1』東京: 評論社, 1992. Print.
---. 『指輪物語2 旅の仲間 上2』東京: 評論社, 1992. Print.
---. 『指輪物語3 旅の仲間 下1』東京: 評論社, 1992. Print.
---. 『指輪物語4 旅の仲間 下2』東京: 評論社, 1992. Print.
---. 『指輪物語5 二つの塔 上1』東京: 評論社, 1992. Print.
---. 『指輪物語6 二つの塔 上2』東京: 評論社, 1992. Print.
---. 『指輪物語7 二つの塔 下』東京: 評論社, 1992. Print.
---. 『指輪物語8 王の帰還 上』東京: 評論社, 1992. Print.
---. 『指輪物語9 王の帰還 下』東京: 評論社, 1992. Print.
---. 『指輪物語10 追補編』東京: 評論社, 2003. Print.
ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔: スペシャル・エクステンデッド・エディション. Dir. Jackson, Peter. Prod. Jackson Peter, Fran Walsh, Philippa Boyens, et al. 日本ヘラルド映画, 2002. DVD.
ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間 : スペシャル・エクステンデッド・エディション. ---. Prod. Jackson Peter, Fran Walsh, Philippa Boyens, et al. 日本ヘラルド映画, 2002. DVD.
ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還 : スペシャル・エクステンデッド・エディション. ---. Prod. Jackson Peter, Fran Walsh, Philippa Boyens, et al. 日本ヘラルド映画, 2003. DVD.
 
.第二次資料
Craig, David M. "'Queer Lodgings': Gender and Sexuality in the Lord of the Rings." Mallorn: The Journal of the Tolkien Society 38 (2001): 11-8. Print.
Kaufman, Roger. "Lord of the Ring Taps a Gay Archetype." Gay & Lesbian Review Worldwide 10 (2003): 31-3. MLA International Bibliography; Gale. Web.
Salmon, C., and D. Symons. "Slash Fiction and Human Mating Psychology." Journal of sex research 41.1 (2004): 94-100. Web.
Saxey, Esther. "Homoeroticism" Reading the Lord of the Rings: New Writings on Tolkien's Trilogy. Ed. Robert Eaglestone. London, England: Continuum, 2006. 124-137. Print.
Smol, Anna. "'Oh …Oh …Frodo!': Readings of Male Intimacy in the Lord of the Rings." MFS: Modern Fiction Studies 50 (2004): 949-79. MLA International Bibliography; Gale. Web.
L.カーター著、中村 融訳『ファンタジーの歴史: 空想世界』東京: 東京創元社, 2004. Print.
小谷 真理「リングワールドふたたび--「指輪物語」,あるいはフェミニスト・ファンタジイの起源」 (トールキン--生誕100年--モダン・ファンタジ-の王国).『ユリイカ』 24.7 : p94-101. 東京: 青土社, 1992. Print.
---. 『女性状無意識テクノガイネーシス: 女性SF論序説』 東京: 勁草書房, 1994. Print.
---. 「腐女子同士の絆--C文学とやおい的な欲望」 (総特集 BL(ボーイズラブ)スタディーズ)." 『ユリイカ』 39.16 : 26-35. 東京: 青土社, 2007. Print.
水間 碧『隠喩としての少年愛: 女性の少年愛嗜好という現象』大阪: 創元社, 2005. Print.
藤本 由香里「少年愛/やおい・BL--二〇〇七年現在の視点から」 (総特集 BL(ボーイズラブ)スタディーズ)." ユリイカ 39.16 : 36-47. 東京: 青土社, 2007.Print.
M.Z.ブラッドリー著、安野 玲訳「人間と小さい人と英雄崇拝」 (総特集 『指輪物語』の世界--ファンタジーの可能性) -- (「物語」をさらに深く)『ユリイカ』 34.6 : 127-41. 東京: 青土社, 2002. Print.
鳴海 丈『「萌え」の起源: 時代小説家が読み解くマンガ・アニメの本質』. 東京: PHP研究所, 2009. Print

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J.R.R.トールキンの『指輪物語』におけるホモソーシャリティとslash文化3-2

2.ファンタジーとSlash 

 映画における表象をきっかけとしながらも、実際のところ多くのThe Lord of the Rings Slashは、映画で改変または省略されてしまった原作の設定や描写も組み合わせつつ、キャラクターの関係性を再構築している。The Lord of the Rings Slashを集めたコミュニティサイトであるThe Library of Moria[i]には、2002年のサイト設立以来2000件を超えるSlash作品が投稿されており、その中には映画に登場しないキャラクター[ii]や、舞台となる作品世界を同じくする『ホビットの冒険』『シルマリルの物語』のキャラクターを取り扱ったもの、さらには原作にすら登場しないオリジナルキャラクターを設定して主人公たちとの関係性を描く作品も存在する。あるいは、旅が始まる前や指輪が葬られた後といった時間的な「隙間」に着目し、その間にどのような事件とキャラクターたちの関係の変化があったかを描きだすというのもSlashの典型である。A. Smol はFrodo/Sam Slashを事例に詳細な考察を行う過程で、”Many slash stories, unlike the films, tackle the class difference between Frodo and Sam, exploring ways in which a sexual relationship might be affected by inequalities in social and political power.”(Smol, p13) と述べている。ホビット族の名家の主人であるフロドと、その庭師に過ぎないサムが、いかにしてお互いへの思いを自覚し、葛藤し、階級差や社会的な立場といった困難を乗り越えて「理想的な愛」を確立するか? 指輪を手にする前と後では彼らの関係性はどう変わるのか? 旅によって心身ともに傷を受けたフロドを、サムはどうやって癒そうとするか? 妻の死後、海の向こうの至福の地に渡ったとされるサムは、そこでフロドと再会できたのか? 物語の「隙間」に向けられる想像力は留まるところを知らない。Slash作者たちは、様々なプロットを繰り返すことで、原作のテクストや映画の一場面から得た“解釈”(例えば「フロドとサムは恋人関係にある」といったもの)に説得力を与えようとしているのだ。

 このように解釈と説明を繰り返して再構築されたテクストは、もはや原作からも映画からもかけ離れた別物になっていく。しかし、個人の頭の中にある空想の絆や関係を、物語という形で具現化するというSlash文化の作法は、実はトールキンが『指輪物語』というファンタジックな作品世界を構築した作法と奇妙な一致を見せる。それについて、小谷真理は以下のように述べる。
 

 『指輪物語』の作者J.R.R.トールキンは、異世界ファンタジーに関する理論を自著『妖精物語について』(1964年)にまとめている。それによると、妖精物語(今で言う異世界ファンタジー)とは、不思議な存在である妖精を単に登場させることのみならず、その異質な生き物がどのような世界に住んでいるのかを考察・構築することに他ならないという。やおい、耽美、BL、少年愛を描く世界は、構造的には、この、トールキン教授が説明付ける妖精物語と同様ではないだろうか (小谷,「腐女子同士の絆」,p35 )


 これは『指輪物語』に限らず、元となる作品に何らかのファンタジー要素を含む二次創作すべてに当てはまることであるが、『指輪物語』の場合は前述してきたホモソーシャリティの要素もあいまって、よりSlash文化を育てやすい土壌を提供していると言える。考えてみれば、「スタートレック」にしろ『ハリー・ポッター』にしろ、Slash的人気を獲得する作品には、ヒーローたちの友情の物語に加え、SFやファンタジーといった何らかの現実とは異なる要素が組み込まれていた。もしこれらの作品の舞台が、未来の技術も魔法も存在しない、普通の現実世界であったならば、Slash文化に許される想像の自由は今よりも制限を受けたものになっていただろう。『指輪物語』においては、トールキンが≪中つ国≫という空想世界を構築し、そこに住まわせたホビットやエルフ、ドワーフ、そして人間などの種族たちも緻密な文化的・歴史的背景を与えられている。Slash作者たちは全く別の物語を紡ぎながらも、トールキン自身によって与えられた膨大な「設定」を利用しつつ、頭の中に思い浮かべた「幻想の恋人たち」を成立させるために彼らの背景を掘り下げる。現実とは異なる社会・文化・生態を持つ彼らならば、きっと現実の制約も越えた「理想の関係」を紡げるかもしれないという希望を見出そうとするのだ。文学ジャンルとしてのファンタジーと、そこに生きる架空生物たち。一方、個人の頭の中の空想としてのファンタジーと、その中で描かれる「幻獣」としての男性。この両者の相似関係が重なったところにあるものの一つがThe Lord of the Rings Slashなのであり、そういう意味で二重の「ファンタジー」を体現しているとも言えるのだ。



[i] Library of Moria < http://www.libraryofmoria.com/ >
[ii] 原作には登場するものの映画では省略された主要人物としては、ホビットたちが出会う謎の人物トム・ボンバティルや、エルフのグロールフィンデル、アルウェンの兄であり双子のエルラダンとエルロヒアなど。

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J.R.R.トールキンの『指輪物語』におけるホモソーシャリティとslash文化3-1

第3章  『指輪物語』とSlash

1. 映画における表象

 ジェンダーやセクシュアリティ、個人の価値観など様々な側面をはらみつつ現代まで発展してきたSlash文化は、現在さまざまな小説・映画・TVドラマ・アニメやコミックなどを“寄生源“として広がりを見せている。序論で述べたように『指輪物語』および映画版の『ロード・オブ・ザ・リング』、そして同じ≪中つ国≫を舞台とし『指輪物語』の前日譚にあたる『ホビットの冒険』や『シルマリルの物語』といった他のトールキン作品もその例外ではない。極めて現代的なメディア行動とも呼べるSlash文化と、ファンタジーの古典『指輪物語』が交錯するとき、そこにはどのような「読み」が生まれるのか。

 第2章で論じたSlashの特徴をまとめると、「① Slashは男同士の友情に着目し、② さらに恋愛要素を付加することで「理想的な関係性」を模索する。 ③ これらの二次創作活動は一種の自己実現であり、相互に承認しあうためのコミュニティを形成する」という3点が挙げられる。1章で論じたように『指輪物語』そのものが持つホモソーシャル性や友情の物語が、Slashが生まれやすい条件を満たしているということは容易に想像がつくが、直接の要因としては明らかに映画版『ロード・オブ・ザ・リング』の存在があるだろう。 A. Smolは”Lord of the Rings slash is fairly unusual in that writers may base aspects of their stories on written texts rather than just on the films, even though no Lord of the Rings slash sites predate Peter Jackson films, as far as I know, and most slash fiction imagines the characters as they are represented by the actors in the film.”(Smol, p13) として、ほとんどのSlashは俳優が演じたキャラクター造形を基本に書かれていることを指摘する。たしかに、ファンフィクションを集めたサイトの設立やそこへの作品投稿は映画公開後に集中しており、映画のスチル画像がそのまま加工されたファンアート(Photomanipulation)などもしばしば見受けられる。つまり、原作のテクストだけでなく、映画によって与えられたヴィジュアルイメージというものが、Slash文化に大きく貢献しているのだ。相互承認とコミュニティ形成を核とするSlashにとって、コミュニティ内のメンバー同士で同じヴィジュアルイメージ――俳優の顔立ちや衣装、背景美術やCGなど――を共有できることは大きな利点であり、むしろこの共有は必須であるとさえ言える。[i]  したがって、原作におけるホモソーシャリティないしは絆の物語といったものが直接Slashの発生に起因したわけではなく、可能な限り原作に寄り添いつつも現代的な味付けをもって映画化された作品の中に、Slash作者/読者たちは先ず「何か」を感じとったのである。

 キャラクターの表象や関係性は、原作と映画では大きく異なる部分も多い。ホモソーシャリティという点に着目するならば、物語の中心にある主人公たちの絆や友情はそのまま引き継がれてはいるが、原作では地の文や台詞を通して「愛情」や「好意」という単語ではっきり表わされた感情は、映画の台詞としてはほとんど登場しない。例えば、「だがどっちだろうと、おらは旦那(フロド)が好きだよ」(『二つの塔・下』,p128)というサムの独白も、「白の木の王(アラゴルン)への愛のために」(『王の帰還・上』,p)というレゴラスの誓いも、役者がそれを直接口にするシーンは無く、代わりに必死に相手を気遣う姿や表情や仕草によってこれらの感情は仄めされている。これらは映像で物語ることが出来る映画だからこその表現であり、むしろ言葉による説明を無粋なものとして避けているとも取れる。それと同時に、感情に名前を付けないという曖昧さは、鑑賞者の側に想像の余地を与え、Slash作者/読者たちは作中に示された些細なきっかけ――アイコンタクトや「手を握る」「肩を掴む」といったジェスチャー――を足がかりにキャラクター同士の関係を巧みに“解釈”するのだ。

 もう一点映画においての変化として挙げられるのが、男女のロマンスや女性キャラクターの活躍である。より多くのシーンを割いて描かれていることだ。最も顕著な例がアルウェンの場合であり、彼女は第1部において馬を乗りこなし敵の追跡を免れるアクションシーンを見せるのみならず、夢やフラッシュバックといった形で度々画面に現れ、ヘテロセクシャルな愛情の強調に一役買っていると言えるだろう。このように作中の各所に女性を存在させることは、ある意味でホモセクシャルへの可能性を否定する“言い訳”として機能し、あたかも男性キャラクターの間にあるのはあくまで友情だと主張しているようにすら思われる。ところが、E. Saxeyは男女間のロマンスの挿入や女性キャラクターの強調が、むしろホモエロティシズムの可能性を導くと指摘する。(Saxey, p136)
 
“The physical gestures that expressed male homosocial relations ―grasping shoulders, pressing and kissing hands and foreheads ―is now also available for heterosexual encounters, and this recontextualizes the fervour of the homosocial. When the physical now includes Aragorn kissing Arwen, what is meant by his kiss for Boromir? ” (Saxey, p136)
 
 もっともここで言及されているキスとは、あくまで死に際の仲間に送る額への口付け[ii]であり、「これは単純に風習の問題であって、物語を紡ぐうえで重要な感情の糸が男性のあいだに張り巡らされている、という仮説を裏付けるものではない」(ブラッドリー,p128) という指摘もあるように、この行為を男女の口付けと同列に扱い、行為そのものから直接ホモセクシャルな意味を読み込むのはいささか早計と言える。
しかしSlashの場合は、想像力ひとつでその問題をいとも容易く飛びこえる。全ての二次創作の定型文は「もし~だったら」に収束すると言える。その特徴は描かれていない、あるいは明言されていない物語の「隙間」を埋めるという点にある。したがって、額へのキスに関しても、Slash作者はただ一つの“解釈”を加えるだけで良い。――「もし、その行為に男女間におけるのと同じ類の愛情も含まれていたら?」と。Slash的思考回路が異性愛主義を起点としていることは2章で述べた通りだが、『ロード・オブ・ザ・リング』の場合、映画で男女間の愛情の描写が増えたことは、同時に「どんな行為をもって愛情表現と見なすか」という指標を鑑賞者の側に与えたことにもなるのではないか。

 Slash作者/読者たちが発見した「何か」とは、つまるところ「額へのキス」といった、「動作」に関するものなのだ。それは他にも、例えば傷を負ったフロドの手を握るサムの姿や、離れ離れになる時にピピンを見送るメリーの表情や、エルフ語で言葉を交わすアラゴルンとレゴラスのやりとりだったかもしれない。目に見える形で示されてはいるが、その正体が何なのかは不明な絆――これに「愛情」という解答を示そうとするSlash文化は、その解釈を補強するために次なる手段をとる。それが次項で述べる、「テクストの再構築」とファンタジーとの関連である。



[i] Fan Fiction NetでBookカテゴリーの上位を占める『ハリー・ポッター』(J.K.ローリング著)や『トワイライト』(著)などにも言えることで、どちらも10代を中心に原作が支持され、さらに映画化という形でメディアミックス展開されている。
[ii] 「死んだ友に送る口付け」というモチーフはトールキンの未発表原稿や草稿などをまとめたHistory of Middle Earth におけるTurin とBelegの場合にも見受けられる。”…and then Turin did as he was bid but yet as one dazed, and stooping he raised Beleg and kissed his mouth.” (HoME part2 ,p80)

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J.R.R.トールキンの『指輪物語』におけるホモソーシャリティとslash文化2-2

2.Slash的思考回路

 なぜSlashを好む「女性」たちは、あえて自らの性であるところの「女性」を排除した恋愛物語に夢中になるのか。日本における「腐女子」に対する研究なども含め、こういった疑問に対する答えとしてしばしば目にするのが、「女性が男性同性愛を描く現象は、男性優位の物語や社会に対するアンチテーゼである」とする論考である。例えば鳴海丈は、日本のマンガ・アニメを例にとり、「やおい」文化は「男の友情至上主義に対する、女性からの無言の抗議」(鳴海, p145)と説明する。また、藤本由香里は「少年愛の形をとることで少女たちは、強姦を描いてもSMを描いても、自分の側だけに痛みを引き受ける必要はなくなった。……それに何よりこれによって女は、一方的に犯られる側の立場から解放され、犯る側の視線、見る側の視線をも獲得した」(藤本,p37)と述べ、女性による主体性の獲得という点を示している。このような考え方のベースにあるは、現実社会あるいは二次創作の対象となる物語世界において、女性が男性に比べて何らかの形で疎外・抑圧されているという意識だ。これは日本の「やおい」文化だけに限ったことではないらしく、パトリシア・フレイザー・ラムとダイアナ・ヴァイスは、『スタートレック』シリーズのSlashにおいて描かれるカークとスポックの関係について、以下のように説明する。
 
「男性とのつきあいにフェミニストがしっかり絶望しきっている今日のセクシズム社会にあって、これらセクシュアル・ファンタジイにおけるふたりの関係は、多くの女性に望まれる「対等な」関係を提示している。」(小谷,『女性状無意識』,p240)
 
 おそらくSlashを好む「女性」たちは、自分たちの性が関わる関係性――男女の恋愛や女同士の友人関係の限界を何らかの形で経験している。だからこそ彼女たちは、自分たちが決して経験することのできない関係性、すなわち「男同士の友情」あるいはそれを超えた「同性愛」の中に何かしらの理想を見出そうとするのではないか。C. Salmon とD. Symons が”slash writers and readers derive pleasure from imagining romantic or sexual relationships built on the foundation of an established friendship” (C. Salmon & D. Symons, p99)と論じるように、おそらくSlashの根本は恋愛ではなく友情にある。

 この友情という概念は社会的にも、ある意味特権的な地位を与えられている。男女の恋愛は、最終的に子孫という形で結果を残しうるものであるため、長い歴史の中で「婚姻・出産」という社会的システムに囲い込まれてきた。そもそも同性愛が「異端」とされたのも、19世紀の近代国家とそれを支える家父長制というシステムに反していたためであった。それに対して友情は、それを保障する制度や行為が存在しない代わりに、システムによって生まれる不平等や差別からも自由な立場にある。このどこか現実離れした感情に、恋愛の要素を足すことで、友情とも恋愛とも異なる新しい関係性を描けるのではないかという試み、それがSlashなのではないか。
 
 このように考えると、Slashとは厳密な意味での「友情から恋愛への読み替え/書き替え」では無い。女性たちがそれぞれ思い描く自分の中の理想を、原作の関係性を借りながら、それでいて原作とは全く異なるフィクションとしてアウトプットしたもの、といった方がより正確だろう。もっともSlash作者や読者が意識的にこのような「理想の具現化」を行っているとは考えにくいが、二次創作の元となる原作や、その中で取り扱うキャラクター同士のカップリングが人によって千差万別であるのは、好みという一言で片づけるには個人の自我やそれを支える価値観に深く関わっているように思われる。水間碧は女性の少年愛嗜好[i]やそれに伴う二次創作という行為について、「無意識の表出」(水間,p36)という説明を行う。自己の中にある何らかのイメージ――男性性あるいは両性具有性といったものをキャラクターに投影し、彼らを空想の世界で遊ばせることは、単なる現実逃避にとどまらず創造的な価値を持ちうるというわけだ。

 つまり、Slashややおいのような二次創作は、完全なオリジナルでは無いものの、一種の自己実現として捉えることができ、しばしば「自分不在の物語」とされるSlashややおいにも何らかの形で自己は仮託・反映されている。さらに、それを仲間と共有しコメントや評価といった形で賛同を表明しあうことで、Slashという形で実現された自己を認めてもらうという承認欲求をも満たすことに繋がる。今日インターネット上において、様々なファンによるコミュニティが形成され、しかもそれが嗜好に基づいて細分化されているという状況は、以上のような理由による部分も大きいのではないか。前項で論じた「異性愛主義のバイアス」を出発点としながらも、ファンタジー[ii]としての男性同性愛を楽しむSlash文化は、抑圧と創造力の間で揺れる「女性」たちの自己を映す鏡なのかもしれない。



[i] 「「女性の少年愛嗜好」とは筆者である私の造語だが、要するに「女の人のホモ好き」のことであり、人によっては「少女の少年愛趣味」といわれてきた現象のことである。」(水間,p9)
[ii] ここで言うファンタジーは文学的なジャンルのことではなく、心理学的な「空想」の意味を指す。

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J.R.R.トールキンの『指輪物語』におけるホモソーシャリティとslash文化2-1

第2章 Slash文化について

1.Slash文化の起源と発展

 Slashとは、主に女性によって描かれ消費される男性同士の恋愛を扱った二次創作であることは既に触れた。この文化と『指輪物語』の関連性について述べる前に、2章では一度『指輪物語』という枠を離れ、Slashがいかにして生まれ、現代に置いてどのような広がりを見せているかについて考察する。
 
 C. SalmonとD. Symons によれば、Slashの始まりは1970年代中頃、アメリカのTVドラマシリーズ『スタートレック』の女性ファンが、作中の登場人物であるカーク船長とその副官スポックとの恋愛物語をファンマガジン(同人誌)として書き始めたことに遡る。(C. Salmon & D. Symons, p94)ファンマガジンは当初個人間での通販や、ファンが集まるイベントなどで売り買いされていたが、今日のSlash文化の中心はインターネット上へと移っている。このような現象はアメリカのみに留まらず、奇しくも同時期にイギリス・ドイツ・オーストラリア・カナダなどの資本主義先進国で発生してきたようだ。日本もまた例外ではなく、70年代からオタク文化の一要素として、女性が男性同士の恋愛を扱う「やおい文化」[i]なるものが存在している。

 ジェンダーやセクシュアリティの問題を論ずるにあたり、70年代というのは一つの転機として捉えられる。アメリカでは、ベトナム反戦運動、フェミニズム運動、公民権運動といった社会運動が生まれており、これらの担い手はそれまで社会的に弱い立場に置かれていた若者や女性や黒人たちだった。「女性」という視点では、70年代初頭のウーマンリブ運動は先進国を中心に広がり、1975年は国際婦人年と定められメキシコで第一回世界女性会議が開催されるなど、フェミニズムの高揚は一定の結果を残している。このような動きの影響の下、「同性愛」という視点にも新たな展望がもたらされた。1969年のストーンウォール事件を契機としたゲイ/レズビアンの解放運動は、アメリカのみならず西洋圏を中心に広がりを見せた。これによって、それまで日影の存在であった同性愛者たちが可視化されたのみならず、同性愛に対する「病理」「性的逸脱」という考え方も改善を迫られることとなる。このような社会運動に共通するのは、差別の撤廃や不条理の是正を訴えながら、それまで当たり前と思われていたものを疑い、新しい価値観の創造を目指すという点である。「男らしさ」「女らしさ」、あるいは「同性愛」と「異性愛」、このような概念そのものが社会的につくられたものであるという指摘と、さらにその二項対立の図式が崩壊していったことは、社会における性の認識に大きな影響を及ぼしたであろう。Slashやその類似文化が、女性を担い手とするサブカルチャーとして世界の複数地域で同時多発的に発展してきたことは、上記のような時代の様相とも関係しているのではないか。

 しかしながら、Slashは必ずしも現実の同性愛を描いたり、そこから同性愛の擁護や差別撤廃を訴えたりするものでは無いようだ。むしろそれは女性読者の頭の中で繰り広げられるロマンティックな空想としての”a female fantasy” であると、J. Russは指摘する。(C. Salmon & D. Symons, p98) つまりSlashが扱うキャラクターというのはそもそも既存作品における架空の存在であることに加え、女性ファンの想像や解釈が入り混じった結果として生まれた、現実の男性とは全く異なる「何か」である。小谷の言葉を借りれば「「やおい」テクスト内部で描かれている男性は、現実の「男性」ではなく、「一角獣」のような幻獣」(小谷,p250)であり、そこで語られる物語は現実からは乖離したものなのだ。

 C. SalmonとD. Symonsはこの”a female fantasy”としてのSlashをロマンス小説との共通点という見地から論じている。曰く、男女の恋愛を扱ったロマンス小説と、男性同性愛を扱っているSlashは、表面上は異性愛と同性愛という差異はあるものの、中心となるテーマやキャラクターの表象・心理描写といった創作上の作法は根本的には同じであり、最終的な主題は理想的な恋愛関係を成就と、それに至るまでの様々な困難を克服することに終始すると言うのだ。例えば身分・国籍の違いや、恋の邪魔をする第三者、望まない結婚や戦争などによる離別のような「障壁」は様々に考えられるが、Slashの場合はさらに「同性愛」というタブーが追加される。前述した『スタートレック』シリーズのカークとスポックを例に挙げるならば、「一見したところ記号表面上は同性愛であり、しかも異星人同士であり、しかも職場恋愛である彼らの愛がいかにして主導権をもちえるか?」(小谷, p241)という訳だ。したがってSlashにおける「男同士の恋愛」とは恋愛における数々の障壁の中に「同性愛」というキーワードを追加しただけのものであり、関係における男役と女役が厳密に区別されるSlashの本質は、男女の恋愛関係の変奏として捉えることができる。そして、この背景には同性愛をタブーとして捉える価値観、すなわち19世紀以来欧米社会を支配してきた強い異性愛主義のバイアスが存在していると考えられはしないだろうか。

 以上を踏まえると、一見ホモセクシャルを好意的に捉えているように見えるSlash文化のメンタリティは、実は異性愛主義という一点においてホモフォビア的発想と出発点を同じくしていることになる。後者が「男同士の友情をホモセクシャルと捉えられたくない」という反応を示すのに対し、前者はその友情を恋愛の物語へと積極的に読み替えたり書き換えたりしようとする、その心理や思考パターンはいかなるものなのか。次の項目では、Slash文化における女性作家/読者たちの社会的・心理的背景をさらに詳しく考察していこうと思う。



[i] 「やおい」とは「ヤマなし、オチなし、イミなし」の略で、女性ファンが既存の漫画やアニメをパロディ化して、男性キャラクター同士の恋愛を扱った物語をさす。小谷は「ヤマなし、オチなし、イミなし」とは、「やおい」が「パロディ的性格ゆえに物語性をほとんど必要とせず、過激性描写のみがエンエンと続く」(小谷、p243)ことに対する自嘲的な表明だと述べる。また、「やおい」を楽しみ消費する女性のことを、やはり自嘲をこめて「腐女子」と呼ぶが、これは日本のオタク文化を背景とする呼称であるため、英語という言語を前提とするSlash文化を論じるに当たり「腐女子」の呼称はあえて避けた。

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