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世界を変えたのは誰か? ~映画のガラドリエルナレーションについて~

ーー世界は変わった。

水からそれを感じる。

大地から感じる。

大気にその匂いが満ちている。

 

  映画を見慣れた人ならピンとくるでしょう、ロード・オブ・ザ・リング幕開けを飾るガラドリエルの独白です。

 

英語での台詞は以下の通り。

"The world is changed.

  I feel it in the water.

  I feel it in the earth.

  I smell it in the air. "

 

 実は私、この部分を長いこと"The world has changed."という現在完了(have +過去分詞)の文だと誤解していたんですが、(そのリスニング力はどうなのよという突っ込みは甘んじて受けます…) 全然別件の調べ物をしていて、改めてスクリプトを確認して気付いたんですね。

 あ、これ受け身の構文だったんだ、と。

 日本語字幕や吹き替えだと「世界は変わった」と、changeが自動詞のように訳されているので見落としてしまってたんですが、英語に忠実に訳すなら「世界は変えられた、変貌させられた」というのがより正確。

  こう考えると、省略されてしまった本来の主語、「世界を変えようとしている何者か」の存在が浮き上がってくるのです。

 

 では、それは誰なのか?

 

 

◆仮説1: 指輪、ないしはサウロンへの示唆?

  真っ先に浮かぶのが本作品の悪役にしてラスボスの冥王サウロン。中つ国を支配し、闇に染めようと目論んでいる存在です。

 彼の復活とその邪悪な意思が、水に大気に満ちているのを察知したガラドリエル様が、独白でナレーションしている…これは普通に考え得ることです。

  第二紀にあった壮絶な戦いのようなことが再び起ころうとしている、と感覚を研ぎ澄ませ、警鐘を鳴らす。そして不穏な指輪のテーマが流れ、浮かび上がるタイトル…。なるほど、アリです。

 

 ただ、ここで気になるのはナレーションの後半部。

 

「かつてあったものが失われ、忘れ去られた。今はもう誰の記憶にも残っていない(原文:"Much that once was is lost; for none now live who remember it")

 

 いや?待って??

 覚えてる人、まだ中つ国におるよね??

 エルロンド卿とかスランドゥイルとかキアダンとかさ。少ないしほとんどエルフ限定だけど、さすがに「誰の記憶にも」は言い過ぎなんちゃいます??

 

 そこでさらに考えてみた。

 

 そもそも、このナレーションしてるガラドリエル様っていつ・どこにいるんだ??

 

 

◆仮説2: 今は文字通り「今」なんだよ!

  最初は普通に物語開始前夜(具体的には第三紀3000年くらい)にロスロリアンで危機を察知したガラ様のナレーションを想定していたんです。だからこそサウロン復活の兆しとか、指輪への不穏な導入として成り立つと思ってた。

 けれど、もしこれが本当に現実時間での「今」、映画の外側にいる私たち観客に語りかける声だとしたら、どうだろう?

 

  ご存知の通り、中つ国はトールキンの創作世界ではありますが、基本的に太古の地球という設定をとっています。

  つまり指輪物語の出来事や地理・種族は、「今はすっかり消え去ってしまったけど、かつては存在していたものたち」という体で描かれているのです。(そもそも指輪物語がビルボとフロドの書いた赤表紙本をトールキンが英語訳したものだという設定がそれを指し示していますし、現代は太陽の第6紀か第7紀にあたるとトールキンは述べています。)

 

  魔法も妖精も消え、高層ビルに自動車が普及する現代においても、普通の方法では辿り着けないどこか西の海の果てに至福の国はあって、ガラドリエルたち西に渡ったエルフは生きているとしたら……

 

「かつてあったものが失われ忘れ去られた

今は(現世に住む者の)誰の記憶にも残っていない」

 

  この台詞が、遠いアマンの地から、私たち現代人に向けて「貴方たちの知らない指輪の物語を語りましょう」と呼びかける奥方様の声に聞こえはしないでしょうか?

 

◆世界を変えたのは誰か?

  仮説2を踏まえると、世界の変貌とはサウロンによる支配というレベルのものではなく、中つ国の姿が変わり、エルフもドワーフもホビットよ消えた「今」のアルダ(地球)の姿に他なりません。

  ここで最初の問いに戻ります。世界は何/誰によって変貌させられたのか?

  奇しくも、『指輪物語』の前日譚である『ホビットの冒険』の中で行われるビルボとゴラムのなぞなぞ勝負にこんな問題があります。

 

「どんなものでも食べつくす、鳥も、獣も、木も草も。鉄も、巌も、かみくだき、勇士を殺し、町をほろぼし、高い山さえ、ちりとなす。」(『ホビットの冒険』岩波書店版、128p)

 

  答えは【時間】な訳ですが、まさにこの時間こそ、The world is changed の隠れた主語なのではと思わずにはいられません。

 

 とまあこんなことを考えて調べ物をしていたら、中つ国wikiのコメント欄映画の第一部冒頭、ガラドリエルの独白として語られる「世界は変わった。水からそれを感じる。大地から感じる。大気にその匂いがする。」というセリフは、実は原作第6巻、ミナス・ティリスから(エドラス経由で)北方へ戻る途中のケレボルン&ガラドリエルと会ったときに、木の鬚が言った言葉から取られているらしい。 -- カイト」というコメントを発見しました。原作の該当箇所は以下の通り。

 

「世の中は変わりつつありますからなあ。わしは水の中にそれを感じますのじゃ。土の中に感じますのじゃ。空気の中に感じますのじゃ。またふたたびお目にかかることがあろうとは思えますまい」(『王の帰還 下』210p)

 
 ここは、指輪の旅がすっかり終わり、これからはエルフの時代が終わって人間の時代になるよーっていう話をしている場面での台詞なので、映画での使われ方とはだいぶ印象が違いますね。こちらははっきりと、エルフや数々の歴史が忘れ去られていくであろう第4紀以降の中つ国の変貌を示唆しているように思います。

 

  これをあえて映画の冒頭にもってきた意味。それはやはり、中つ国を忘れた私たちに向けて、映画と観客、虚構と現実、あるいはあったかもしれない遠い昔と今――それらを繋ぐ橋渡しだったのではないでしょうか。 

次に映画を見直す時は(もちろんこれから初めて見る人も!)、そんな事を頭の片隅に留めて、ガラドリエル様の冒頭ナレーションに耳を傾けて見てはいかがでしょうか。

 

(原作の引用ページ数は文庫版に準じる)

 

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なぜ私はレゴラスが好きなのか

この記事はTolkien Writing Day の12月企画、アドベントカレンダーに参加しています。
お題が「何故私は○○が好きなのか」というシンプルかつドンピシャなものだったので、乱文ながら参加させて頂きます。今回は考察と言うより、主観と偏見と願望が混ざった文章になる可能性があるので予めご了承ください。

 それでは参りましょう。

「なぜ私はレゴラスが好きなのか」!!!!!!!!!!!!!!!!


◆ビジュアルの魅力

さて。いきなり身も蓋も無い話からいきますが、やっぱり何と言っても顔です。いや、髪も好きだし、立ち居振る舞いも好きだが、要するに見た目。So cool, so beautiful.

そもそも『指輪物語』への入り口は、映画「ロード・オブ・ザ・リング」でした。当然ながらキャラクターのイメージは最初から全て映画準拠で入っています。レゴラスに関してはもう当時のオーランド・ブルームが演じたあのビジュアルが完璧すぎて、ほいほい釣られたというのが正直な本音。

もともとゲームやアニメに登場するエルフのキャラクターや、「弓」という遠距離武器に魅力を感じていたので、「エルフの王子で弓の名手で、めちゃくちゃ美形のハリウッド俳優が演じてて、金髪で編み込みのロン毛」というだけでフルコースだったわけです。

(トールキンが作ったエルフのイメージが他のファンタジー作品に大きな影響を与えたことを考慮すると、むしろ「派生先」のものに慣れ親しんでいて、元祖に立ち戻ったことになる訳ですが…)

 あれよあれよと原作に手を伸ばし、レゴラスの容姿に関する言及にはすかさず付箋を貼るしょうもない中1でした。「エルフらしいその美しい顔」(『旅の仲間』下1、p98)とか「風のない夜の若木のよう」(『二つの塔』上1、p41)とか「人間の標準の及ばぬほど美しい顔」(『王の帰還』上、p313)とかね、挙げればきりが無いんです。

とはいえ、彼の「王子様然とした」容姿に、そのままシンデレラや白雪姫に登場するようなお伽噺の「王子様」を求めて好きになったのかと言うと、当時から少し違っていました。最初はその正体が何なのかわからなかったのですが、これは原作を読み終わってからの話になります。

 

◆原作でのKYっぷり

 映画から原作に手を伸ばし、恐らく多くの人がびっくりしたであろうポイント。キャラ(性格)が大きく違う。(例:「太陽を見つけに行ってきますからね!」)

 とはいえビジュアルで完全に補正がかかっているので、そこも全て魅力的に見えました。というか、原作の性格の方が好ましく思えたんですね。原作のレゴラスは、雪山の例にもれず、ロスロリアンでも観光気分で浮かれているし、どこか掴みどころが無くて、ふわふわとしていて、自由です。あの過酷な旅の道中、基本的にフロドやホビットに感情移入しながら読んでいた私は、終始難しい顔をしているガンダルフやアラゴルンよりも、レゴラスのこういう余裕にどこかほっとする部分があったのだと思います。

 

◆ギムリとの友情

 レゴラスを語る上で欠かせないのがギムリとの友情。仲の悪い種族同士なのに、類まれな友情を結ぶ2人の関係性は、『指輪物語』にいくつも登場する「友情」の中でも最も魅力的で心に響くものの一つだと思っています。ビジュアルの凸凹コンビ感もまた素敵なんですよ。2人でミナス・ティリスに入っていくと気の描写なんてね、周りの人の好奇心はそのまま読者の代弁です。

(余談ですが当時中1だった私はレゴラスとギムリの友情について原稿用紙8枚の読書感想文を書きました。「仲が悪かった相手と友達になれることはすごいことだとおもいますまる」みたいな内容でした。完全に馬鹿です。)

 2人が仲たがいを辞めるのはロスロリアンでのシーンですが、

「そしてかれはこの土地の中をあちこち出歩くのに、度々ギムリを連れ出し、その変わり方はみんなを驚かせずにはいられませんでした」(『旅の仲間』下2、p97

とあるように、この行動の主語はレゴラスなんです。これは「レゴラスの方に先に心境の変化が合って、主体的にギムリに働きかけた」とも読み取れないでしょうか。勿論、ギムリの方も律義に付き合ってあげるあたり、だいぶ穏やかになってるとは思います。(ロスロリアンの土地の性質か、奥方様の魔力かはわかりませんがw)それでも、基本的に不変の存在であるエルフが「変わる」ということ、これがとても特別で稀有なものに思えました。

「その種族にしては変わっている」。こういった要素はやはりキャラクターを立たせます。

ましてや、それまで「旅の仲間」を通して描かれてきたエルフと言えば、不老不死で、不変で、自分たちの世界に閉じこもっていて、中つ国の危機に際してもさっさと船で海の向こうに逃げてしまうような、どこかお高くとまった種族。その代表として旅に参加したレゴラスが、今まで嫌い合っていた種族に歩み寄ることができる。大げさな言い方ですが、私はここに『指輪物語』における善の勢力の本質を見たような気がしたのです。以前読んだエッセイで次のような一文がありました。

 

「だからこそこの物語では、唯一であることは悪なのだ。誰にでも絶対に仲間がおり、必ず友か伴侶が寄り添う。これだけ多くの存在が登場しながら、一人で行動するのを好む者はいない。」(宇月原晴明「<(ザ・ロード)>という呪い」『ユリイカ 総特集『指輪物語』の世界 ファンタジーの可能性』青土社、2002年、p84

 

 サウロン、そして《一つの指輪》――この強大な”one“に立ち向かうためには、バラバラだった自由の民が団結するしかありません。誰かの独裁や強制によってではなく、あくまで自主的に、互いに手を取り合うこと。”Rule them all” とは違うんだぞ!という気概を見せつけないといかん訳です。メリーとピピンがエントたちを説得し、ローハン軍がゴンドールを支援するため遠征し、サムが「指輪の重荷は背負えなくても」とフロドを背負うあのシーンに見たカタルシスを、レゴラスとギムリの中にも見たのだと思います。

 

 

◆第4紀を知る者――最後の<旅の仲間>として

ホビット庄歴1541年 この年の三月一日、エレスサール王遂に崩御される。…(中略)…この後、レゴラス、イシリアンで灰色の船を建造し、アンドゥインを下って、海を渡った。かれとともにドワーフのギムリも行ったという。この船が去った時、中つ国では、指輪の仲間は跡を絶った。」(『追補編』,p169

 

 原作も読み終わり、「さあ、帰ったよ」の何とも言えぬ喪失感と愛おしさに耐えきれず、手を伸ばした追補編で、さらなる切なさに見舞われたのがこの下りでした。追補編には、指輪戦争の「その後」の仲間たちの経緯が年表や物語形式(一部抜粋)でつづられています。レゴラスやギムリは、それぞれゴンドールの近くに領地を持ち、アラゴルンを始め人間の世界の復興に貢献します。ところがエルフと違い、人やホビットといった定命の者には必ず寿命があります。フロドを追って西へ旅立ったサム、ゴンドールで短い余生を終えたメリーとピピン、そして天寿を全うしていったアラゴルン(エレスサール王)。迫る寿命はドワーフにも同じことだったはずです。この調子で親友まで死んじゃったら、レゴラス大丈夫??悲しみが深すぎると死ぬ設定のエルフだけど大丈夫?? と不安に思いつつページをめくる私。ちなみにこれより前に記載されている「アラゴルンとアルウェンの物語」で、エレスサールを看取ったアルウェンは「私を運ぶ船はもうありません」と言って悲しみに暮れたまま死を受け入れる訳ですが、一方同じくずるずる残っちゃってとっくに船が無いであろうレゴラスが出した回答。船が無いなら作ればいいじゃない。親友?連れてけばいいじゃない。

はい。なんというかね。一周回ってすがすがしいですよ。やっぱこいつはカラズラスで太陽探しに行ったあのエルフのままだわ!と笑いすらこみあげました。

同時に、「あんなに海に漕がれていたのに、アラゴルンが死ぬまでは120年も待って、その後ギムリのことは根性で連れていくんだなw」という追跡トリオの何とも言えない子の絆も噛みしめて、とても人間臭いと思ったりもしました。そう、第4紀まで来るとレゴラスはエルフなのにとても「人間臭い」。

 トールキン教授には「レゴラスは九人の徒歩(かち)の者の中でおそらくもっとも勲が少なかった」(『終わらざりし物語』下、p174)なんて言われちゃってるレゴラスですが、私はレゴラスが《旅の仲間》の一員であった最大の意義とは「彼がエルフであったこと」だと思っています。ガンダルフが第3紀の終わりに西へ旅立ってしまっていますし、ギムリも西の地に渡ったところで寿命が永遠になるわけではないのでいずれ死んでしまいます。

第4紀と言う新しい時代に、かつての仲間が、友が、どうやって生きて、何に笑って何を育んで、そしていかにして死んでいったのか――。奇しくも『追補編』には死に際してアラゴルンがアルウェンにこんなことを言っています。

 「われらが共に暮らした日々の思い出を西方に運び去れば、その思い出はかの地で色褪せることは無かろう」(『追補編』、p85)

 アルウェンはこれを拒否して人間の運命(=死)を受け入れているわけですが、じゃあそのアルウェンが死んでしまう以上、思い出を思い出のまま保持してられる人って誰よ? レゴラスじゃね?と。
カメラもビデオも、それに準ずる魔法技術も(おそらく)無い中つ国で、友の人生をずっと見続けて、ずっと自分の記憶として覚え続けていられる《旅の仲間》。これってすごく素敵で重要な事じゃないでしょうか?

変化を学び、成長し、ドワーフと友情を結び、誰よりもエルフらしくないエルフになってしまったように思えたレゴラスが、最後の最後でエルフであるがゆえにできることがある。これに気付いた時、本当の意味でこのキャラクターが大好きになったのでした。

 

◆おわりに

 さて、冒頭の容姿に関する項目で、「どうやらレゴラスを「王子様」として好きになったのではなさそうだ」と書きました。難しいのですが、中学生だった当時から「私の王子様♡(きゃはっ)」っていうテンションじゃ無いな…なんだろうな、この感覚…と思っていたんですが、そのヒントは「私の」という所有格にありました。だいたい、お伽噺で出てくる「王子」って、「お姫様」の対義語としてというか、相手ありきの文脈で登場する付属品みたいだと思っていました。(ゲームの主人公の王子設定とかも有るけどさ…DQ2とか、あれはまた「未熟な若者」っていう属性の一つじゃん?)

 追補編を読むとわかることですが、他のキャラクターたちはホビッツも人間組もそれぞれ結婚して家庭を持って身を落ちつけていく中、レゴラスとギムリにはその気配が無いんですね。それよりも「中つ国にまだ見るべき美しいもの」を求めてあちこち旅をして、いつまでも自由です。結婚や恋人の存在を束縛と言うつもりはありませんが、やっぱりこう好きなキャラクターが作品内で特定の誰かとくっついちゃうと、疑似失恋のような淋しい気持ちになるのは当時の自分にもあったようで、そう言う意味で「誰のものにもならない」状態のレゴラスってすごく新鮮だったのだと思います。(ギムリもそうなんですが、彼の心には奥方様への尊敬と憧憬があまりに大切な場所に座っている気がします)

 だから別に「私の」にしたいとか思わない。なぜなら最後の選択も含めてトコトン自由な有り様にこそ、最大の魅力を感じたから。空を飛ぶ鳥を見て「いいなあ」と思うような感覚ですよ。別に捕まえたいとか、自分も飛びたいとかじゃなく、ひたすら清々しい気持ちになって元気を貰うような。

 今更言うまでもありませんが「レゴラス(Legolas)」の名前の意味は“緑葉”です。何とも瑞々しくて若々しいそんな響きに、「中つ国にまだ見るべき美しいもの」ならぬ「『指輪物語』という物語にまだ見るべき美しいもの」の一つを見て、たまらぬほど活力を貰うのです。

 

 

※引用文献のページ数は文庫版に準ずる。

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Tolkien Witing Day: お薦め関連書籍

Reading The Lord Of the Rings :New Writings Tolkien’s classic

Edited by Robert Eaglestone

 
洋書。トールキンの著作についてのエッセイ集。様々なテーマ別に批評家や研究者、各分野のライターの見解が幅広く知れる一冊。
とりわけ興味深いのがPart 3:Gender, Sexuality, and classの章収録のテーマである”Woman”(女性), ”Masculinity”(男らしさ), ”Homoeroticism”(ホモエロティシズム), ”Service”(奉仕)に関する4篇。ジェンダー方面からは何かと女性の役割が弱いだの男性権威主義的だのホモソーシャルだのと指摘を受けがちなトールキン作品における、キャラクター同士の関係性や表象についてかなり突っ込んだ視点で書かれています。「こういうところ、好きだなあ」「ここのやりとりが熱いよね!」と思っていたそんな感情に、論理的に説明をつけてもらう感覚とでもいいましょうか。
 原作だと台詞や地の文といった「言葉」によって表わされていた関係性が、映像になった時にどういう風に変化していたのか、そこの読み取れる感情の糸etc... キャラ重視で深読みに深読みを重ねたい人には、読み物として十分面白い文章です。
 もちろん、他の章の批評史や、時間の概念について、一つの指輪についての考察などなど他にも多様な角度で考察がまとめられておりますので、自分の興味のあるトピックからかいつまんで読める「評論アンソロジー」のような本です。
 
 

ユリイカ 詩と批評「特集 トールキン ――モダンファンタジーの王国」(1992 vol.24-7)

ユリイカ 4月臨時増刊号「総特集 『指輪物語の世界』 ファンタジーの可能性」(2002)

 
今も様々なテーマで批評文やエッセイ・コラムを載せてくれているユリイカのトールキン関連特集の号。それぞれ20年前と14年前のものですが、前者はトールキン自身への作家性や原作のテキスト読み込み要素が多めなのに対し、後者は映画の公開に合わせて組まれた特集なので映画LOTRへの言及も見られ、比較すると面白いです。
ジェンダー方面だと小谷真理「リングワールドふたたび 『指輪物語』あるいはフェミニストファンタジーの起源」、マリオン・ジマー・ブラドリー「人間と小さい人と英雄崇拝」の二つは読み物としてもオススメ。
 

ファラミアは、アラゴルンに対するエオウィンの愛は男性としての英雄崇拝にすぎぬと明快な言葉で切って捨てる。「『あの方はおそらく、あなたには若い兵士の目に映ずる偉大な大将のように讃嘆すべきものに見えたのでしょう。あの方はその通りだからです……』」(ブラッドリー,133p)



 エオウィンもまた“英雄時代”――少女が自分の性別と限界に反抗し、男性的行為を夢見る時代の終焉を体現している。(ブラッドリー、132p


 
この辺のキャラクター心理を、巧みに噛み砕いて説明してくれているくだりなんかは「成程!」と膝を打つ部分です。
映画だけ見た人に「エオウィンって要するにアラゴルンにフラれたんでしょ?」と言われると、「違う!そんな簡単な事情じゃ無くてですね…!」と前のめりで説明したくなるあれこれ。先人の言葉を借りて理論武装(?)してみるのもいかがでしょうか(笑)
 
 
Unsung Heroes Of The Lord Of The Rings: From The Page To The Screen  Lynnette R. Porter 
 
こちらもまた洋書です。(日本語訳未出版)タイトルの「謳われざる英雄たち」とあるように、批評分野において扱いがいまいち地味なキャラにスポットを当てて考察・批評を行っている本。
だいたい指輪の研究で文献を読むと、やはり取り上げられるのはフロド、サム、アラゴルン、あとジェンダー系で人気なエオウィンあたりに偏るのが現状ですが、この本ではそれ以外のキャラクターの役割や象徴について細かいキャラ考察を行っています。
なんといってもレゴラスとギムリをピックアップしてくれていることが嬉しい一冊!

Gimli and Legoras both present the most important coronation “gifts” to Aragorn: his crown and his bride. Through their place in the ceremony, Gimli and Legoras are shown in important roles. … Legoras leads the contimgent of Elves who, seemingly Aragorn’s surprise, have arrived to present Arwen as a bride. … Thus, Gimli and Legoras symbolically lead Aragorn into his two greatest roles as king and as husband/bridegroom.( Porter ,158p)


上記は、いわゆる追跡トリオ――ことアラゴルン・レゴラス・ギムリのトリオの関係性に新しい視点を貰った下りです。映画の戴冠式シーンでそれぞれ美味しい立ち位置を貰っていたあのシーンについての言及ですが、「ガンダルフの横で王冠を捧げ持つギムリ→王になることへの手伝い」「花嫁(アルウェン)を指し示すレゴラス→夫/花婿になることへの手伝い」という内容。ずっと野伏の身分だったアラゴルンが真にエレスサールになるときにこの3人の絆が映像で表彰されていたのだなと実感させられました。
 原作・映画両方の描写の共通点や差異についても触れているので、キャラ改変が大きかったアルウェンなどの考察もお薦めです。
 


とまあ、若干批評系・ジェンダー系に偏ったチョイスではありますが、お薦め関連書籍4冊でした。
原作や映画に触れた時に「ここのシーン、台詞、言葉にならないくらい良い!!」と思ったり、「何でこんな風に改変しちゃった?どういう意図だ?」と首をひねったり、そういう時に「こういう切り口・見方で考えたら?」とヒントをくれる、あるいは自分が上手く言い表せなかった言葉を示してくれる――これが批評文・評論文の面白さだと思っています。

 きっと原作を読み返すとき、新たな発見のヒントにもなるのではないでしょうか?
 
 
※この記事はTolkien Writing Day(9月22日)に参加しています。http://bagend.me/writing-day/ 
 

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「〈物語の世界〉古英語叙事詩とホビットの冒険」受講レポート(後編)

中編のつづき



◆具体的な共通点 ~ベオウルフの竜とスマウグ~

 

さて、古英語の文献にあたりそれらの中からいわゆる「中つ国」の生き物たちを創造していったトールキン。

では先述の『ベオウルフ』と『ホビット』の間にはどんな共通点があるのか。

講義は具体的な文脈を追っていきます。

 

 

まず『ベオウルフ』の竜の描写。(古英語版と現代英語は割愛)

 

 軈(やが)て高き高地にありて宝庫(たからぐら)、

 堆き石塚を守りたる

 一頭の竜暗き夜な夜な威を振り初めぬ。

 人に知られざる路、その(石塚の)下に横たはりてありき。

 異教人の宝に近く辿り着きし或る人のその中へ行き、

 手、珠玉もて鏤(ちりばめ)たる(大いなる酒杯を掠めたりき)。

 彼[]は眠りて盗賊の業にかかりしども、後そを匿すことなかりき。

 かの人々、戦士の国民は彼[]が怒りてあるにぞ心付きける。 

 (厨川文夫訳、2210-2220)
(講義レジュメより引用)

 

つまりどういうことかというと、

  高い山の下に

  宝物を抱え込んだ竜が眠っている

  そこへ、秘密の通路を使って

  宝のカップを盗み出したやつがいることに

  あとで竜が気づき

  怒った音を聴きつけて国民はおののいた。

 

以上の要素が組み込まれているわけですが、はい、もうお気づきですね。

『ホビットの冒険』12章、「なかにはいってたしかめる」。

このくだりそのものなんです。

(12章の引用は長いのでここでは省略。お手元の本をご確認ください)

 

「何だパクリか~」とか思った人。いないと思うけど、もしいたら、それは違う。

やはり古い時代の神話・伝説の古文調で「こんなことがあった。こうなってこうなってこうなった」などとあっさりした語り口であるところを、

トールキンは物語としてわくわくドキドキできるように仕立てているというのがミソらしいのです。ビルボがそーっと入っていって、竜にびっくりして、こっそりこっそり宝を探す・・・「でもここでスマウグ起きたらどうしよう!」っていうあのハラハラ感ですよ。

 

ついでに私自身の趣味で、こういった記号の一致(高い山=はなれ山、秘密の通路=ドワーフの抜け道、などなど)を挙げるなら、北欧神話に登場する英雄シグルス周辺の要素も面白いと思います。

 

・魔力を得て鳥の言葉がわかるようになり、シジュウカラの助言で悪役を倒す

⇔バルドがスマウグを射る時のツグミの助言(『ホビットの冒険』)

 

・地面の溝に潜み、その上を竜が通りかかったところを、弱点である腹を刺して殺す

⇔トゥーリンが始祖竜グラウルングを殺すとき、渓谷に身を隠す。(『シルマリルの物語』)

 

などなど。

こういう「あ、これってちょっと似てるかも!」というのを色んな文献から探すだけでも楽しいものです。

 

 

「中編」で触れた内容にも共通することですが、トールキンは古英語叙事詩に描かれた世界や種族というものに、独自の意味付けや脚色を加えることで自分の創作に“落とし込み”ました。

エルフのイメージを“復元した”と説明したのは伊藤先生の言葉ですが、ここでもやはり“復元”という表現がしっくりきます。

 

曰く、トールキンは、自らの研究分野であったところの古英詩、中世文学に謳われた物語世界というものをとても愛していた。(ちなみに近世、近代の英文学はそうでもなかったとか何とか) 

その自分が好きで好きでたまらない世界というものを、近代にも通ずる児童文学(ファンタジー文学)の形をとって復元、再提供した。

もっというならば子供から大人まで楽しめる形で、我々に紹介してくれた。

 

こうとらえると、トールキンの『ホビット』や『指輪物語』の向こうに、さらに奥深く広大な“古英語”というフィールドを見ることができるのだと。

 

そして、少しでも「面白そうだな」と感じたならば、それは既に教授の術中にはまっているし、

学問の面白さというものの入口に立っているんだよ!

 

 

・・・という感じで講義を締めくくられていました。

(講義の主旨が「新入生歓迎」ですから、これから大学で学ぶことに少しでも楽しさを見出してほしいという締めくくりだったと思います。実際楽しいしね!)

 

 

以下は完全に私個人の感想を含めての見解になります。

中世物語、古英語叙事詩を自分流の物語に落とし込んで紹介したトールキン。

そしてそのトールキンに影響を受けた作品も、やはりそれぞれのやり方で、「トールキン的な」ファンタジーというものを生みだし、広げてきてこそ今日に至っています。

 

全てがトールキンを源流にすると言っては各ファンの反感を買うと思いますが、

テーブルトークRPGの代表格の『ダンジョンズ&ドラゴンズ』だって、

日本産ファンタジーの金字塔といわれる『ロードス島戦記』だって、

その「好きなものを僕の私の手法で提供するぜ!どう?面白いでしょ?」というリレーの中で生まれてきたんだと思うのです。

 

それは勿論最近公開されたPJ版の「ホビット~竜に奪われた王国~」も同じ。

とりわけ第2部に関してはかなり原作からの改変や追加の要素が多く、

ファンの間でも驚きや戸惑いの声があがっていたと思います。

けれど、今回講義での「分かりやすい形で紹介した」という伊藤先生の解釈をお借りするならば、

PJや製作陣の意図はこんな感じかなと。

 

「トールキンの原作は面白い。けれど、このままじゃ『なんか古典ファンタジーとか児童文学で古臭くて私にはついていけないなあ』なんて人もいるだろう。

そんなの勿体ない。映画はアクションもいれるしハラハラドキドキの展開にするよ!

でも原作も面白いから、これをとっかかりにできたら、どうぞようこそトールキンの世界へ!」

 

そう、ちょうどトールキンがあの淡々とした竜の描写を、あんなにも心躍る“12章 なかにはいってたしかめる”にしたように。

 

私自身、映画『ロード・オブ・ザ・リング』が入口の人間です。

そんな自分のことも省みつつ、この「好きなもの復元・紹介リレー」に心から感謝をささげたいなあと思わされたのでした。

 

 

乱文になりましたが、レポートは以上です。

本当にトールキン愛あふれた素晴らしい講義であったこと

その内容の面白さが少しでも伝われば幸いです。



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「〈物語の世界〉古英語叙事詩とホビットの冒険」受講レポート(中編)

前編のつづき



Hobbit ~「英単語」としてのアプローチ~ ①

 

「ホビット」。

この生き物についてトールキンファンであれば誰でもよく知っていることと思います。

人間の半分ほどの背丈で、明るく陽気、もてなし好きで、食べることと飲むことと笑うことが大好き、したがって食事は1日に6回、足は硬い皮膚と毛で覆われているのでめったに靴を履かない、素朴な暮らしと平穏を愛する「小さき人」。

 

オックスフォードの辞書にまで「トールキンが創造した架空の種族」として”Hobbit”という単語の記載があるほど。

この単語はトールキンの造語とされており、その語源などは不明なのですが、(例えば穴を掘って生活していることなどや臆病な性質から”Rabbit(ウサギ)が語源なんて説もある)

ちょっと待って。

 

実は、トールキンより以前に”Hobbit”という単語を使った書物があるですって?

 

ここで参照するのがThe Denham Tract :A Collection of Folkloreという文献。

これは19世紀につくられた小冊子で、さまざまな伝承伝説の類や妖精や幽霊といったものを紹介する読み物だそうです。その一説が以下の通り。

 

 When the whole earth was overrun with ghosts, boggles, bloody-bones, spirits, …(中略)… redmen, portunes, grants, hobbits, hobgoblins, brown-men ... and apparitions of every shape, make, form, fasion,  and description, that there was not a village in England that had not its own peculiar ghost.

 

どういうことかというと、

「幽霊とか魔女とか妖精とかとにかくその他もろもろ色んな魑魅魍魎の類が跳梁跋扈していた頃には、イングランドのどの村にも固有の幽霊や伝承があったんだよ」

という内容。(ザックリ訳ですすみません)

その「その他もろもろ色んな魑魅魍魎」として羅列されてる例の一つに、ほら、ありますね?

“Hobbit”

 

ここからわかるのは、トールキン以前――少なくともデナムの時代のHobbitというのは、ゴブリンや魔女や幽霊の類としていっしょくたにされるような存在だったということです。

ただの妖怪妖の類としてしか紹介されてなかったHobbitという単語に、先述した「陽気な小さい人」というイメージを付与し、新しいファンタジー生物として“創造しなおした”ともいうべきでしょうか。

 

ファンタジー生物とはいえホビットはどこか近代のイギリス人を彷彿とさせる種族です。

後の話題にも繋がることですが、ドワーフやエルフ、オークにドラゴンといったさらにファンタジーファンタジーした生き物が出てくる中つ国への導入として、読み手である現代人と、恐ろしく不思議に満ちた中世文学のような中つ国の住人をつなぐ役割として、ホビットが主人公に選ばれたのではないかな?とすら思えてきますね。

 

 

Dwarf, Elf ~「英単語」としてのアプローチ②~

 

さて、中つ国の住人は何もホビットだけじゃない。

トーリン=オーケンシールドたちドワーフや、裂け谷や闇の森のエルフたちを忘れてくれるな!

・・・ということで。

さきほど「単語に与えられていた従来のイメージに、あたらしい種族性を付与する」と述べたトールキンの創作活動は、Dwarf,Elfに関しても言えるのです。

 

この二つの種族は、それこそ古英語叙事詩、エッダ、サガなどなどで一番古い時代から存在を信じられてきたという点で、そんじょそこらの「人外生物一覧」とは一線を画すらしいです。

 

ここで再びオックスフォードディクショナリー参照。

Dwarf(複数形Dwarfs)・・・地域によって「ドワーフ」「ドウェルシュ」「ドウェルグ」などなど。だいたい地中に住む、工芸の技に優れた小人、というイメージは中つ国のそれとさほど変わらないように思えます。

だけど注目。そう、複数形。

 

「あれ? トールキン作品だと”Dwarves”じゃないの?」

 

実は本講義で一番面白く感じたのがここなのですが、トールキンは従来の英語にはDwarfsという綴りしかないのを知っていて、あえてDwarvesという表記を使っている。

何故か?

それはトールキンが創造した中つ国において、「トーリン=オーケンシールドとその一族が属する古い種族について述べるときのみ、Dwarvesを使う」と注釈にあるんです。

 

一般にドワーフというとちょうど白雪姫の「7人の小人」のような大衆に広く普及したイメージというものがあります。それはディズニー映画に限らず、ほかにも「ドワーフって、まあこんな感じでしょ?」というイメージはずっとあったのでしょう。

 

でも違うんだと。

これから語るのはアルダの歴史においてヴァラールのアウレ様が創造し(しかも「勝手につくってんじゃねえよ」と怒られ)無事中つ国に目覚めた後もエルフとすったもんだあってサウロン様から7つの指輪を受け取っちゃったりの!この!固有の世界の「ドワーフ」についてなんだよ!!

7人の小人とは違うんだ!

 

・・・・という主張を、綴りを変えるという手法によって行っていると取れるのです。

(ちなみに講義ではここまでは言ってませんよ。念のため)

 

 

Elfについても同じことが言えます。

しばしばFairyと同義とされ、羽の生えた小妖精というか、「真夏の夜の夢」の妖精というか、下手すると「ハリー・ポッター」の屋敷しもべ妖精みたいなのもいっしょくたに「エルフ」と呼んでいたかつての時代。

 

そういう妖怪じみた「エルフ」のイメージを、美しく聡明で背丈も高い天使的な上位種族のイメージとして創りなおしたのがトールキンだ、なんてのはよく言われています。

(そのあとD&Dがあって、日本ではロードス島戦記があって・・・という話をしたいのですが割愛!)

 

ですが伊藤先生が仰るには、“復元した”というのが正確なのではないかと。

 

Elfという単語の起源をたどると、北欧の物語に『スノッリのエッダ』というものがあります。

それによると、エルフ(elf)ないしはアルヴ(alv)という種族には二種類いると。

 

空には「アルフヘイム(エルフの故郷)」と呼ばれる土地がある。「光のエルフ」と呼ばれる人々がそこに住んでいる。しかし、「闇のエルフ」は地下に住み、外見は彼らと違っているが、中身はもっと違っている。光のエルフは太陽よりも明るいが、闇のエルフはピッチよりも黒い。

Wikipedia より引用)

 

 

『シルマリルの物語』を読んでいる人ならば、ピンとくる描写かもしれません。

二本の木の光を知る上古のエルフたち、ガラドリエル様のような綺麗で神々しい存在。

 

こういったイメージを、トールキンは北欧のエッダなどの古い文献から得たのでしょう。

 

講義では触れていないことですが、「単語」という切り口を補足するならば、トールキンはエルフに関して”elf”という使い古された言葉のほかに、”Eldar(エルダール、星の民)“という呼称も与えています。もちろん全ての中つ国のエルフがエルダールに含まれる訳では無いのですが、ここで言いたいのは、トールキンがとにかく言語面での特異性によって作品にオリジナリティを付加するという作業を忘れていないということ。

 

英語が苦手でも一生懸命原書をたどって読みたくなるようなお話ですね。




(収まりきらなかったので後篇に続く)


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